ジョンソン辞書構想案および序文のための註釈(2)

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研究ノート
ジョンソン辞書構想案および序文のための註釈(2)
早 川 勇
要 旨
筆者はジョンソン辞書の構想案と序文の試訳を先に発表した。原文だ
けを頼りに,彼の辞書観や言語観に迫るのが目的であった。2008年度に
海外研修の機会が与えられ,大英図書館及びロンドン大学において多く
のジョンソン関連書や論文を目にすることができた。そこで,既に発表
した試訳が不充分であることが判明した。新たな訳を完訳として発表し
たい。その前に,英語辞書の構想案(1747)および序文(1755)に関連
して書かれた多くの研究書を参照し,そこにでてくる語彙や表現や作品
などについての注釈をここに示したい。これらはジョンソンの辞書や言
語観を理解する上においてとても重要である。ところが,構想案と辞書
序文の細部については,見解の分かれるところもかなりある。註釈の多
くは G. J. Kolb and R. DeMaria, Jr.: Johnson on the English Language
(2005)から採った。そのすべてをここに記載したわけではない。他に
も参考文献に示した多くの著作や論文を参照し,それらに見られる解釈
や指摘を含めた。
キーワード:ジョンソン辞書,ジョンソン辞書構想案,英語辞書史,辞書学
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愛知大学 言語と文化 No. 26
[ジョンソン英語辞書序文の註釈]
ジョンソン英語辞書初版(1755)の序文は第 4 版(1773)において,かなり訂正や修正
が加えられた。以下の註においては,句読点以外の点で内容的に異なった点についても記
載した。ただし,Keast(1952–53)は第 2 版(1755–56)における変更点に注目し,その
ほとんどがジョンソン自身が行ったものだとしている。なお,
[ ]内の数字は第何段落目
かを示す。
~~~~~~~~~~~~
[1–2]
Weinbrot(1972: 85)によると,最初の2つの段落で『構想案』の雰囲気とはまっ
たく異なることを示した。同時に,パトロンがいないことも明言した。
[2]
序文では pionier と綴っているが,ジョンソン辞書では pioneer の綴りで見出し語と
し て い て,‘One whose business to level the road, throw up works, or sink mines in
military operations.’ と説明した。辞書編纂をこのようにみる見方は Ephraim Chambers:
Cyclopaedia: or Universal Dictionary of Arts and Sciences(1728)の序文にも見られる。
“sinking, and working under-ground . . . mere drudgery, and pioneer’s work; difficult to
carry on, dubious of success, and overlooked when done”(I, xviii)
[2]
『構想案』及び序文において literature を「文学」と訳すことはほとんどない。ジョ
ンソン辞書は literature を “Learning; skill in letters.” と説明した。
[2]
初版の ‘paths of Learning and Genius, who press’ を,第 4 版では ‘paths through
which Learning and Genius press’ と書き換えた。
[2]
ジョンソンは序文において authour と綴っているが,辞書の見出しでは author とし
ている。
[2]
ジョンソン辞書は lexicographer を「辞書の著者。起源を調べ,語義を記すのに追い
まくられ,こつこつ仕事に精出す無害な人間。
」と説明した。
[3]
Weinbrot(1972: 86)は「第 3 段落で,私たちは話し手の正直さ,勇気,無心のここ
ろを公的に受け入れる」としている。
[4]
Leman(1755: 296)は語尾の ck について述べている。“Among the alterations may
be reckoned the restoration of the letter k to many words, from which modern writers
have generally banished it; particularly from terms of science, such as conic, elliptic,
optic, sudorific, and many more of that sort, to all which Mr. Johnson adds a final k.”
(note 6)特に,sceptic は skeptick と綴るべきだとジョンソンは主張した。ただし,その
主張を補強する資料は提示していない。
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ジョンソン辞書構想案および序文のための註釈(2)
[4]
ジョンソン辞書は perplexity を ‘2. Entanglement; intricacy.’ と説明した。
[4] ジョンソン辞書は adulteration を ‘1. The act of adulterating or corrupting by
foreign mixture; contamination.’ と説明した。
[4]
Weinbrot(1972: 85)は without が繰り返し用いられている文体に注目している。
[5]
no assistance はもちろんパトロンなどがいなかったことを意味する。
[5]
Horgan(1994: 86)によると,17,18 世紀の知識人にとって general grammar は 16
世紀末以来の「普遍文法」の意味であるとしている。例えば,ポール・ロワイヤル(PortRoyal)の文法は Grammaire générale et raisonnée と呼ばれていたからである。
[5]
ジョンソン辞書は ascertain を ‘1. To make certain; to fix; to establish.’ と定義。
[5]
analogy はジョンソンの言語観を探るうえできわめて重要である。彼は辞書のこの項
目の第 3 番目に次の説明をしている。
「文法家によって用いられる場合には,いくつかの語
が共通の形態のもと一致していることを意味する。例えば,love から loved が,hate か
ら hated が,grieve から grieved が派生しその語尾の形が一致している。
」ジョンソンは,
このような類推の言語現象には「理性」が体現されていると考える。なお,18 世紀の言語
観を知る上で Barrell(1983)はとても参考になる。
[6]
初版の ‘registred’ を,第 4 版では ‘registered’ と綴った。
[6]
ジョンソン辞書は likewise を ‘In like manner; also; moreover; too.’ と説明した。
序文を日本語に訳す場合,likewise を「さらに,そのうえ,なお」と訳すことが多い。
[7]
‘merely oral’ ‘a word used only speech’ などの表現は,ジョンソンにおける不賛同
や否認を表す。ただし,音声言語を容認しない態度は,当時としては一般的なものである。
[7]
綴りのちがいについては辞書の随所で言及している。例えば many の名詞用法の語
源欄には「この語がサクソン語においてしばしば用いられていることは注目に値するが,
20 余の綴りがある。
」と書かれ,そのあと具体的な綴りが示される。
[7]
‘the powers of the letters’ とは,その文字が本来もっている音声や音価のことである。
[9]
‘Quid te exempta . . .’ は古代ローマの詩人ホラティウス(Quintus Horatius Flaccus
65–8 B. C.)の Epistularum(Epistles II, 2, 212)から採った。
「たくさんの棘があるのに,そ
のうちの1つだけ抜いても,あなたにとってどんな意味があるのですか。
」
[11]
‘true orthography’ については,今までの慣用が不明な場合にのみジョンソンは示
した。彼は基本的に綴り字改革を軽蔑していた。
[11]
authour の綴りについて,Leman(1755: 295) は次のように述べている。“Mr.
Johnson’s practice is not always analogous to his precepts: as in the word Authour,
which he constantly writes, in his preface, with a u in the last syllable, whereas, in the
series of the dictionary, it stands thus, Author, n. s. [Auctor, Lat.]” 発音と綴りのはざま
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の例として yelk と yolk を出している。ジョンソン辞書では,yelk の説明として ‘It is
commonly pronounced, and often written yolk.’ と記している。
[14]
ジョンソンは choke や soap の綴りを好んだ。このことは,彼が当時の慣用を重視
していたことの表れだといえる。
[15]
試訳においてハモンドを James Hammond(1710–1742)としたが,正しくは
Henry Hammond(1605–1660)のようである。彼の作品である A Practical Catechism
(1644)
,Of Fundamentals in a Notion referring to Practice(1654)などからしばしば引
用されているからである。引用数は 400 を越える。ただし,fecibleness, feasibleness はと
もに辞書に掲載されていない。念のため James Hammond の代表的著作2つについて調
査したが,これらの語はみあたらなかった。
[15]
feasibleness を,ジョンソン辞書はフランス語の faisible が入ったと記している。
[15]
初版の ‘one or other language’ を,第 4 版では ‘one or another language’ と書き
換えた。
[16]
ジョンソン辞書は genius を ‘5. Nature; disposition.’ と説明した。この語と関連し
て,Hardy(1979: 110)はこう述べている。“This last phrase might seem a trifle vague,
as do those other phrases in the Preface and Grammar which refer to ‘the genius of the
English language’ or ‘the genius of our tongue’. Yet they at least indicate that he had
some feeling for the fabric of the language and how it had been formed.” また,Barrell
(1983:123) はこの表現は重要だと述べている。“The key phrase to decipher, in
discussion of language and liberty in our period, is one used by numerous writers on
language: ‘the “genius” of the tongue’, a phrase related to the ‘genius’ of the land, of
the nation, as it occurs in political writings. For writers such as Swift and Lowth, the
genius of the tongue was to be understood as its ideal, analogical structure, all too
rarely embodied in actual usage; it was what the language ought, ideally, to be, in
accordance with the rules of universal grammar, . .” ただし,これとは逆に ‘customary
usage’ によって規定される英語の独自性を指すこともある。
[16]
英国国教会の教義の基礎を作ったフッカー(Richard Hooker)の Of the Lawes of
Ecclesiastical Politie(5 vols. 1594–1697)第 4 巻 14 頁からの引用である。
[17]
‘words are the daughter. . . . the sons of heaven’ の出典について,Strachan(1942:
27)は Samuel Madden: Boulter’s Monument(1745. I, 377)の ‘Words are men’s Daughters
but God’s sons are things’ であろうとした。ただし,
『創世記』にある次の文を基礎とし
ているという説もある。‘the sons of God saw the daughters of men that they were fair’
(6, 2)Horgan(1994: 85)は「ものは神の手によって創られたが,ことばは人間の慣行の所
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ジョンソン辞書構想案および序文のための註釈(2)
産 に すぎない」と解釈している。Downes(1962: 32)は “At this point we should recall
Johnson’s continual reminders that words are ‘arbitrary’ . .” と述べている。
[17]
‘instrument of science’ という表現中のscience はジョンソン辞書の ‘1. Knowledge.’
の意味である。
[17]
概念とことばとの関係については哲学者ロック(John Locke)に準じている。An
Essay Concerning Human Understanding(1690. III, ii, 第 6 節 ) に 次 の こ と ば が あ る。
“Words . . . [are] immediately the Signs of Mens [sic] Ideas; and by that means, the
Instruments whereby Men communicate their Conception” この ideas を Downes(1962:
29)はこう解釈している。“idea to Johnson was a word that differed scarcely at all in its
relevant sense from image; indeed he defines the one by the other(image, 5)
.And
Boswell records that Johnson was ‘particularly indignant against the almost universal
use of the word idea in the sense of notion or opinion, . .’” また,Barrell(1983: 116)は
こう語る。“Crucial to Locke’s theory of language . . . is that words are not the signs of
things, but of ideas, and this insistence is related to another, that words do not come to
stand for ideas by virtue of any natural connection . . . between words and ideas, . .” さ
らに,Green(1989: 137)はこう述べている。““ideas” here in the Berkeleyan sense, not
the Platonic: that is to say, sense impressions. And, as the empiricist knows, apart from
divine revelation, sense impressions are the ultimate source of all true knowledge
(“science”)
.
”
[18]
発音表記の面において,ジョンソンは『構想案』で主張したほど進められなかった。
この点を補う意味でも,18 世紀末に本格的な英語発音辞典が 2 つ出版された。
[19]
ジョンソン辞書は primitive(adj)
.を ‘3. Original; primary; not derivative: as, in
grammar, a primitive verb.’ と説明した。
[22]
‘provincial tongues’「その地域の言語」とは,イタリア語,スペイン語などを指す。
[24]
『構想案』
[27]の註を参照のこと。
[25]
初版の ‘moan from μόνος, monos’ を,第 4 版では ‘moan from μόνος, monos, single
or solitary’ と書き換えた。
[26]
Leman(1755: 298)は次のような註を付している。“Instances of this kind may be,
almost universally, seen in words, the initials of which are either K or W, letters that
seem peculiar to the northern languages.”(note 10)
[28]
‘deficiency of dictionaries’ は従来からの難解語中心の辞書の欠点に言及している。
[28]
‘when they were exhausted’ には次のような解釈がある。“I take this to mean:
when a brief skirmish had revealed their almost total unfitness for his purpose”
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(Wimsatt 1959: 65)
[29]
ジ ョ ン ソ ン 辞 書 に お い て, 固 有 名 詞 と し て 収 録 さ れ て い る も の は 少 な い。
Grubstreet, Lichfield(Lich のなかで)はよく知られているが例外である。
[30]
ジョンソン辞書は philosopher を「道徳や自然について深遠な知識を有する人」と
説明した。Wimsatt(1948: 5)が指摘するように,当時の philosophy は,現代の自然科学
分野から哲学,時には道徳の分野をも包含していた。このため,philosophical は「自然哲
学の」
「科学の」などの意味となる。
[30]
Leman(1755: 299)は次のような註を付している。“Of this class may, perhaps, be
numbered, Insitiency.”(note 11)
[31]
McAdam(1970: 204–205)は本段落の内容と関連しこう述べている。“The word
most interesting in this passage is useless: Johnson’s test of admission is often
pragmatic. At other times it is more sophisticated: . . . When Johnson comes to explain
why he has included some unusual words and excluded others, he speaks again of
usefulness, . .”
[34]
初版の ‘and many sometimes have been omitted’ を,第 4 版では ‘and sometimes
have been omitted’ と書き換えた。
[36]
初版の ‘signifying rather qualities than action’ を,第 4 版では ‘signifying rather
habit or quality than action’ と書き換えた。
[36]
分詞形容詞について,辞書の前付けにある英文法においては何も言及していない。
[37]
主張の点と関連して,ドライデンの Satires of Juvenal(1697)からの引用文を参照
したい。“Obsolete words may be laudably revived, when they are more sounding, or
more significant than those in practice”(The Works of John Dryden, 1974. vi, 15)この文は
obsolete, laudably, practice の 3 か所に引用されている。
[38]
Leman(1755: 300)は次の註を付している。“The insertion of these compounds
we apprehend to be not the least useful part of this work; they are, indeed, numerous,
and our compiler has shewn great diligence in collecting and supporting them by
proper authorities. Fair seems to be an error of the press, and intended to have been
far, from whence we have far-fetch, far-fetched, far-piercing, far-shooting, & c.”(note
14)この書評は,fair は間違いで far ではないかと指摘した。初版にあった fair は第 2 版と
第 3 版(1765)で削除されたが,第 4 版では fair が復活した。ただし,Keast(1952–53:
133)はアルファベット順を考慮し semi ではないかと推測している。
[38]
初版の ‘modes of our combination amply discovered’ は,第 2 版で ‘modes of
our combination are amply discovered’ となった。
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ジョンソン辞書構想案および序文のための註釈(2)
[39]
Keast(1952–53: 133)はこう記している。“But affixed is wrong, for it means “to
unite to the end, or à posterior; to subjoin.””
[40]
このような句動詞をジョンソンはどのようにして集めたのだろう。Horgan(1994:
129)は,英語辞典からではなく外国語辞典から採ったと推測している。例えば,Willem
Sewell の英蘭辞典や Abel Boyer の英仏辞典や Robert Ainsworth の英羅辞典からである。
筆者は異なる意見をもっている。引用文にある動詞をいろいろな意味に分類するなかで,
これらの句動詞と向き合わざるをえなかった。動詞の意味の分類と並行して,これらの句
動詞を収集したのであろう。
[41]
エインズワース(Robert Ainsworth 1660–1743)は Lancashire 州の Woodyale に
生まれた。独学で身をたて Bolten で学校の経営者となった。1698 年にはロンドンに赴き,
全寮制の学校を運営した。1736 年に大部なラテン語辞書を編纂したことで有名で,その
のち簡約版も出版した。フィリップス(Edward Phillips 1630–ca. 1696)はロンドンの
Strand に生まれた。ミルトンの甥にあたり,1658 年に The New World of English Words
を出版した。英語礼讃の姿勢を明確に認めたといわれる。 ベイリー(Nathan Bailey
?–1742)は Seven Day Baptist であった。Stepney では学校を経営した。1721 年に An
Universal Etymological English Dictionary を出版し,初めて語源を全体として扱った。
さらに本格的な辞書 Dictionarium Britannicum を 1730 年に出版した。ジョンソンはその
第 2 版(1736)を大いに利用した。
[41]
Leman(1755: 305)は次のような註を付している。“Under this species of words
may be ranked Colubrine, Concremation, Conditement, To Corrade, Elumbated.
Also very many others.”(note 16)
[41]
同種の主張は チェインバーズの百科事典(Cyclopaedia)第 4 版(1741)序文にも見
られる。“The truth is, a fourth part of the words in some of our popular Dictionaries,
stand on no other authority than the single practice of some one fanciful author; who
has met with Dictionary-writers fond enough to take his frippery off his hands, and
expose them to the public for legitimate goods”(I, xx)
[43]
‘I cannot hope to satisfy...’ を,Fussell(1972: 208)はこう解釈した。“His perhaps
and not always, however, serve as signals that even this confession is not unattended
with the irony appropriate to the very idea of a single man writing a whole dictionary.
Sometimes this kind of irony drops away, yielding to other comic techniques; “Some
words there are which I cannot explain because I do not understand them.””
[43]
中段の文章を Keast(1952–53: 134)はこう解釈している。“Instead, his [Johnson’s]
point is that definition is impossible without the use of these words, which cannot
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themselves be defined. In the first edition the phrase the use of words stands directly
below by supposing something, . .”
[43]
同種の主張は哲学者ロックの An Essay Concerning Human Understanding(1690)
にも見られる。“The Names of simple Ideas are not capable of any definitions.”(III, iv, 4)
これは辞書編纂家ならだれしも思うことで,ジョンソンが特にロックの発言を意識したと
いうわけではなかろう。
[45]
Keast(1953: 52–53)の研究では常識にそって fall と訂正したが,fill の可能性も残
る。また,full には動詞の用法もあることを付記しておく。
[45]
初版の ‘the caprice of every one’ を,第 2 版では ‘the caprice of every tongue’ と
改めた。
[47]
ジョンソンはこう述べているが,キケロは ‘lugubrem eiulationem (dolorous wailing)’
のほうを選択すると表明している。
[48]
この点は次の時代の辞書編纂家であるリチャードソン(Charles Richardson)から
批判を受けた。ジョンソンの方法は文脈上の意味を解釈しようとしているのであって,単
語の個々の意味を説明しようとしていないというのである。
[50]
この段落の内容と関連し,Hardy(1979: 110)はこう述べている。“To Johnson a
‘consecutive series’ of ‘collateral’ things would have been inconceivable, since it would
have required that things could be both intertwined like a chain(Latin series, ‘a chain’,
serere, ‘to interweave’)
,and ‘collateral’, placed side by side or parallel.”
[51]
jargon の理解として,Downes(1962: 33)の次の註釈は参考になる。“And he
[Johnson] prints under word a warning from Locke of the dangers consequent upon a
disputed or ill-defined relation between word and thing: ‘Among men who confuse
their ideas with words there must be endless disputes, wrangling, and jargon.’”
[52]
Leman(1755: 318)はこう述べている。“The following may be considered as an
exception to Mr. Johnson’s general method with words of this sort. Candid...”(note 21)
[54]
Keast(1953: 55)は,本段落中の in a search like this は内容や文構成から考え in a
work like this ではないかとしている。この点と関連し,この段落の performance はジョ
ンソン辞書の ‘2. Composition; work.’ にあたる。
[55]
ジョンソンは「概略案」
(Short Scheme)を考えていた段階では,多国語辞典を想
定していた。その種の辞書であれば,イギリス人のみならず多くの外国人にも売れると考
えた。グラッブ・ストリートの住人としては,どれだけの販売が見込めるかの予測は常に
頭のどこかにあったにちがいない。ただし,その部分は『構想案』においては削除された。
というのも,多国語辞典の構想が崩れたからである。
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ジョンソン辞書構想案および序文のための註釈(2)
[57]
ジョンソン辞書は process を ‘4. Methodical management of any thing.’ と説明し
た。さらに引用文としてボイルの文をあげている。‘Experiments, familiar to chymists,
are unknown to the learned, who never read chymical processes. Boyle’ 日本語では「行
程」
「手順」などの意味になる。
[57]
expunging を Gunn(2000: 117)はこう解釈している。“The word “expunging,” in
particular, is so unusual and so striking in its sound quality that it seems itself to
express vexation, and thus Johnson seems to be acting out his frustration in the texture
of the sentence, by means of exaggeration.”
[57]
ジョンソン辞書は philology を ‘Criticism; grammatical learning.’ と定義し,その
例文として William Walker: English Examples of the Latine Syntaxis(1683)にある文を
掲載した(DeMaria 1986: 13)。‘Temper all discourses of philology with interspersions of
morality. Walker.’ この例文はジョンソンの心情をよく表している。
[58]
ジョンソン辞書は detruncation を ‘The act of lopping or cutting.’ と説明した。こ
れと関連し,Fussell(1972: 209)は次のように記している。“And he has had to perform
such “hasty truncation [sic]” to get his materials to fit his space that sometimes too
much context has been excised, . .”
[59]
学芸に関する語彙について,ジョンソンは次のような辞書類を利用した。辞書執筆
の時点ではこれらの語彙を収録するということで心が定まっていた。しかし,これらを積
極的に取り上げるつもりはなく,他の辞書類を大いに参照すると考えていたと推測される。
学 芸 全 般 Ephraim Chambers, Cyclopaedia: or, An Universal Dictionary of Arts and
Sciences(4th ed., London, 1741, 7th ed. London, 1751–52)
,John Harris: Lexicon
Technicum: or, An Universal English Dictionary of Arts and Sciences(5th ed. 2 vols.
London: J. Walthoe, 1736)
,手工業 Thomas Tusser: A Hundredth Good Pointes of
Husbandrie(1557)
,Joseph Moxon: Mechanick Exercises: or The Doctrine of HandyWorks(3rd ed. 2 vols. London: Dan. Midwinter & Tho. Leigh, 1703)なお,構想案の
[12]も参照されたい。
[60]
この具体例としては次の人物が挙げられる。
( )内の語彙のもとにみられる。David
Garrick(fabulist, nowadays, prudish),Charlotte Lennox(to suppose [sense 4],
singular [sense 3] The Female Quixote からの引用文)
,Samuel Richardson(to glisten,
to romance),William Law(gewgaw, devotion [sense 5]),Samuel Johnson(to
ランブラー
medicate, instillation [sense 3]『彷徨者』からの引用文)ジョンソンは自分の文章も引用文
とした。他に適当な引用例がみつからないときに採った手段にちがいない。Fussell(1972:
209–210)はさらに次の例を記している。“Under Important he [Johnson] quotes a line
― 71 ―
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from his own Irene, and Lacerate and Relax he quotes from The Vanity of Human
Wishes.”
[61]
‘the wells of English undefiled’ は,スペンサー(Edmund Spenser c. 1552–1599)
の The Faerie Queene にある “Dan Chaucer, well of English undefiled.”(IV, 2, 32, 8)を
採った。
[61]
英語がフランス語化することへの危惧は,ジョンソンに限らず多くの知識人によっ
て表明された。Richard Verstegan: A Restitution of Decayed Intelligence(1605),John
Hare: St. Edward Ghost(1643),John Wallis: Grammatica Linguae Anglicanae(1652),
Stephen Skinner: Etymologicon Linguae Anglicanae(1671),Henry Felton: A
Dissertation on Reading the Classicks and Forming a Just Style(1713),William Guthrie:
Cicero’s Epistles to Atticus(1752)
[61]
‘the genius of our tongue’ については,
[16]の註を参照のこと。
[62]
言語が粗野であった状態から完全な状態に向かうとする言語観は,イタリアおよび
フランスの言語アカデミーに共通な考えであるだけでなく,まさにこの考えの延長線上に
母国語辞書編纂がある。
[62]
natural knowledge とは,科学,特に博物学(natural history)を指す。
[62]
ジョンソン辞書は policy を ‘1. The art of government, chiefly with respect to
foreign powers. 2. Art; prudence; management of affairs; stratagem.’ と説明した。
[63]
ジョンソン辞書は tract を ‘3. Continuity; any thing protracted, or drawn out to
length.’ と説明した。この語の理解には,William Holder の例文が参考になる。“in tract
of speech a dubious word is easily known by the coherence with the rest” また,辞書
には次の意味もある。‘4. Course; manner of process; . .’
[64]
Keast(1953: 53)はこの段落の最後にある ‘I have reason to doubt’ を取り上げ,内
容的に考え ‘I have no reason to doubt’ が正しいのではないかとしている。
[69]
初 版 の ‘I laboured to settle the orthography, display the analogy, regulate the
structures, and ascertain the signification’ を,第 4 版では ‘I laboured by settling the
orthography, displaying the analogy, regulating the structures, and ascertaining the
signification’ と書き換えた。
[69]
ジョンソンが用いる but や yet について,Fussell(1972: 210)はこう述べている。
“As he nears his conclusion he returns to develop the great presiding, Johnsonian
theme, the theme of the ironic distance between human plans and performance, and
here the buts and yets, as in the Rambler, bear a large burden of meaning.”
[69]
Leman(1755: 322) は 次 の よ う な 註 を 付 し て い る。“Thus far Mr. Johnson’s
― 72 ―
ジョンソン辞書構想案および序文のための註釈(2)
preface is declaratory of what he has done; it is extended to a few more pages, wherein
he not only acquaints his readers with, but also largely apologizes for, what he has not
done: in the course of which he has introduced some pertinent observations on the
causes of the mutability of living language.”(note 24)
[71]
ジョンソンは,音楽に関連した用語をほとんど収録しなかったといわれている。
[72]
この段落中の to rest は,‘to come to rest, finish up’ の意味であろう。
[72]
この段落の中段において every が5回も用いられている。Fussell(1972: 210–211)
はこの点に言及している。“In the addition of the five everys, the imagery of the whole
passage is enough to notify us that an ironic reversal is imminent: he is going to please
himself with a prospect, that is, a picturesque view of natural scenery beheld by an
optimistic sentimentalist; he is going to revel at feasts like a hero of high Romance; . .”
[72]
ジョンソン辞書は at last を ‘In conclusion; at the end.’ と説明した。
[73]
初版の ‘in time be finished’ を,第 4 版では ‘in time be ended’ と書き換えた。
[74]
‘school philosophy’ は ‘academic philosophy’ と置き換えてもよかろう。ジョンソ
ンはロックの影響も受け,生物学でいう類(genus)種(species)種差(differentia)のよう
な階層的語彙分類を構想していたようである。
[78]
Russell(1997: 45)はこう述べている。“But such activities as these were precisely
what the French encyclopaedists were doing as Diderot proclaimed in his Prospectus to
the Encyclopédia of 1750: ‘Thus everything impelled us to go directly to the workers . . .
We approached the most capable of them in Paris and in the realm. We took the
trouble of going into their shops, of questioning them, of writing at their dictation, of
developing their thoughts and of drawing there from the terms peculiar to their
professions. . .’”
[79]
ミケランジェロ・ブォナローティ(Michelangelo Buonarotti)は,有名なミケラン
ジェロの甥にあたる。1552 年にイタリア語を純化するために設立されたイタリアのアカ
デミー(della crusca)のメンバーであった。彼は 1612 年出版の辞書編纂にも参画し,
1618 年にはシリーズになっている田園物の喜劇 La Fiera を書いた。その喜劇の登場人物
の多くは,商人や職人たちだった。
[81]
ジョンソン辞書は betray を ‘4. To make liable to fall into something inconvenient.’
と説明した。
ランブラー
[83]
同種の発言は『彷徨者』(第 43 号)にもみられる。
「人間の技術が生み出すすべての
ものを私たちは称賛と驚嘆の気持ちでながめるが,それらの偉業は忍耐という避けられな
わざ
い力のなせる業である。まさにこの忍耐によってこそ,石切り場がピラミッドとなり,遠
― 73 ―
愛知大学 言語と文化 No. 26
方の国々が水路によって一つになるのだ。
」
[84]
初版の ‘to think well of my design, require’ を,第 4 版では ‘to think well of my
design, will require’ と書き換えた。
[84]
初版の ‘change sublunary nature, or clear the world’ を,第 4 版では ‘change
sublunary nature, and clear the world’ と書き換えた。
[84]
この段落においてジョンソンは言語を規定する際に慣用(usage)がきわめて大きな
役 割 を 果 た す こ と を 表 明 し た。Barrell(1983: 118) の 意 見 が 参 考 に な る。“Common
usage — say, a generally, and tacitly agreed definition of a word — is a good standard
for everyday conversation as long as we simply accept it, and don’t say what it is: as
soon as we define a word by common usage, we substitute for common usage our own
authority, and no one has the authority to do that.” なお,
『構想案』
[68]の註を参照の
こと。
[85]
フランスの神学者 Pierre François le Courayer は,Paola Sarpi の作品(Istoria del
Concilio Tridentino 1619)を翻訳し 1736 年に世に送り,その序文においてこの点に言及
した。なお,ボズウェルはこう記している。
「そして,彼がグリニッジからケーブ氏宛てに
提案したパウロ・サルピ神父の『教会史』翻訳の企画が採用されたことを,私たちは知る。
この翻訳のうち数枚は実際に印刷されたが,企画は途中で頓挫した。というのは,奇妙な
ことが起きたのだ。同姓同名のサミュエル・ジョンソンという名の(中略)人物が同じ企画
に従事していたのである。そして,その人物は聖職者たちとりわけ後のロチェスター主教
ピアス博士の後援を受けていた。このため,事態は当時の新聞紙上において二人の翻訳者の
ちょっとした論争にまで発展した。結局,双方がその仕事を中断しお互いに相手を打ち負
かすことになった。この高名な天才フラ・パウロの優れた著作がジョンソンの立派な翻訳
で英国文学界に残る機会を失ったことは残念の至りである。
」(第 1 巻 135 頁)
[87]
‘subordination’ についてのジョンソンの意見は,ボズウェルの伝記において繰り返
し述べられている。
「従属関係は社会にとってとても必要で,優劣をめぐる戦いはきわめて
危険である。それゆえ,人類すなわちすべての文明化した国民は明白で変わらぬ理念に基
づいてそれを築き上げた。人は親から代々伝わる階層に生まれ落ち,ある特定の官位に指
名されてはじめて特定の位階を得る。階級制度という従属関係は,人間の幸福に寄与する
ところが大きい。我々がすべて平等のもとにいるとするならば,私たちは単なる動物的な
喜び以外の楽しみを手にすることはないはずだ。
」(第 1 巻 442 頁)
[87] ジョンソン辞書は speculation を ‘3. Mental view; intellectual examination;
contemplation.’ と説明した。
「抽象的な考え」くらいの意味であろう。
ランブラー
[87]
同種の発言は 1751 年に書かれた『彷徨者』にもみられる。
「著述家はまず最初に本
― 74 ―
ジョンソン辞書構想案および序文のための註釈(2)
質と慣習とを峻別するように努力しなければならない。すなわち,正しいから制定された
ものと,ただ制定されているので正しいこととを区別しなければならない。
」(第 156 号)
[88]
次の 3 つの語彙については,その比喩的意味がジョンソン辞書に掲載されている。
eccentrick は ‘4. Irregular; anomalous; deviating from stated and constant methods.’ と
なり,sanguine は ‘3. Warm; ardent; confident.’ とあり,phlegmatick は ‘3. Watery. 4.
Dull; cold; frigid.’ とある。
[88]
こ の 段 落 の 中 段 に あ る illiterate を ジ ョ ン ソ ン 辞 書 は ‘Unlettered; untaught;
unlearned, unenlightened by science.’ と説明した。
[88]
ジョンソン辞書は licentiousness を ‘Boundless liberty; contempt of just restraint.’
と説明した。
[88]
スウィフトの論考とは A Proposal for Correcting, Improving and Ascertaining the
English Tongue(1712)を指す。ジョンソンは『イギリス詩人伝』においてこれをこき降
ろしている。
「言語の普遍的な特質について何の知識もなく,また,他の諸言語の歴史につい
て正確な考察もまったくなく書かれたものである」(III, 16, 第 40 段落) Fussell(1972: 212)
は次のように記している。“Swift is, for Johnson, too much the theoretician of human
nature, too willing to give it first the law and then the last. . .”
[88] 初版の ‘it has once by disuse become unfamiliar, and by unfamiliarity
unpleasing’ を,第 4 版では ‘it has once become unfamiliar by disuse, and unpleasing
by unfamiliarity’ と書き換えた。
[89]
初版の ‘and haste and negligence, refinement and affectation’ を,第 2 版では ‘and
haste or negligence, refinement or affectation’ と書き換えた。and が何回も繰り返され
ているのを避けるためであろう。
[91]
初版の ‘distresses of humanity? it remains’ を,第 4 版では ‘distresses of humanity?
It remains’ と書き換えた。
[91]
ジョンソンのアカデミー観を Fussell(1972: 213)はこう記している。“Johnson
does not like academies just because they dictate and prescribe; he prefers even
messiness to the inevitable pride and tyranny and self-righteousness engendered by
academies in their members, and the hangdog dependence they engender in their
creatures and followers.”
[91]
言語と法(政治)を同列に並べる考えについて Barrell(1983: 114)はこう述べてい
る。“The analogy between law and language was not an invention of such men
[Addison, Johnson and Paine]: it is at least as old as Plato, and had been used by
Bacon and Hobbes, among others, in seventeenth-century England. What is important
― 75 ―
愛知大学 言語と文化 No. 26
however is the frequency of its use in the period we are studying, and the fact . . . it has
a particularly English character in this period. . .”
ランブラー
[92]
同種の発言は『彷徨者』にもある。
「人間の不幸のほとんど大部分を治癒するのは
劇薬ではなく緩和剤である。不幸は肉体的な特質に含まれ,我々の身体に編み込まれてい
る。それゆえ,それをすべて拒否しようとする試みはすべて効き目がなく無駄である。
」
(第
32 号)
[92]
初版の ‘the palm of philology to the nations’ を,第 4 版では ‘the palm of philology,
without a contest, to the nations’ と書き換えた。
[92]
同種の発言はボズウェルの手になる伝記にもみられる。
「知的優秀は,すべてのな
かで最高の優秀さにほかならない。従って,その国にとっての最高の名声はそれぞれの国
の著述家の栄光と威厳から生まれる。
」(第 2 巻 125 頁)
[92]
Weinbrot(1972: 88–89)は useless and ignoble 以下の文を次のように解釈してい
る。
「偉人たちの作品を宣伝したいと思う寛大な心は,ジョンソンを生き生きとさせると同
時に,彼に喜びをもたらしている。その喜びとは『構想案』にみられたような自信に満ち
たものではなく,不十分とはいえよく努力して充分にことを成し遂げたという喜びであ
る。
」
[92]
Boyle は,多分,Robert Boyle(1627–1691)のことであろう。ボイルはロイヤル・
ソサエティーを創設し,自然哲学や物理学など多分野の学識を誇っていた。ジョンソンに
よる引用の数は 1,000 を超す。
[93]
‘no dictionary. . .’ の文を Barrell(1983: 160)はこう解釈している。“‘No dictionary
of a living language ever can be perfect’, he writes at the end of the Preface, ‘since
while it is hastening to publication, some words are budding, and some falling away’ ;
and that image of an organic process in language — ‘budding’ here a metaphor taken
from Horace, best classical authority for the sovereignty of common usage — seem to
suggest a pleasure taken in the mutability of language, and not a merely reluctant
acquiescence.”
[93]
スカリゲル(Josephus Justus Scaliger 1540–1609)はフランスの古典学者であっ
た。南フランス,イギリス,イタリアなどを歴遊し,1593 年にオランダのライデン大学
教授となった。ラテン語やギリシャ語に精通し,近代的な本文批評の基礎を確立した。ヘ
ブライ語とアラビア語にも通じていたので,年代学上の混乱を除き年代史記述のすべてを
統合して古代世界の全体像を描こうとした。
[93]
段落後半にある avocation をジョンソン辞書は ‘1. The act of calling aside.’ と説明
した。
― 76 ―
ジョンソン辞書構想案および序文のための註釈(2)
[93]
初版の ‘casual eclipses of the mind’ を,第 4 版では ‘casual eclipses’ と書き換えた。
[93]
ジョンソン辞書は trace を ‘2. To follow with exactness.’ と説明した。
[93]
to-morrow に つ い て ジ ョ ン ソ ン 辞 書 に は 次 の よ う な 説 明 が み ら れ る。
「To.
preposition. 24. to は day の前で用いられ今日を示す。morrow の前で次にくる日を表し,
night の前で今夜の意味か次にくる夜を表す。25. To day, to night, to morrow は余り適切
とはいえないが,名詞として主格や他の格でも用いられる。
」
[94]
ジョンソン辞書は retirement を ‘2. Private way of life.’ と説明した。
[94]
初版の ‘in sorrow: and it may’ を,第 4 版では ‘in sorrow. It may’ と書き換えた。
[94]
パオロ・ベニ(Paolo Beni)はイタリアの大学の教師で,アリストテレスやヴァー
ジルの作品の批評家であった。彼は 1612 年に出版されたイタリア・アカデミーの辞書を
批判した。ダンテやペトラルカのような俗っぽい(rustic)言語に反対し,アリオスト
(Ariosto)のような現代の作家にみられる洗練された言語を推奨した。
[94]
ジョンソンは,墓場に眠っている人として妻のテティー(1752 年 3 月 17 日死去)
だけでなくリッチフィールドの友達 Gilbert Walmesley(1751 年 8 月 3 日死去)も想定し
たかもしれない。
参考文献(その1で示した文献は割愛する)
早川 勇(2007a)
「ジョンソン英語辞書計画案(1747)試訳 その 1」
『言語と文化』愛知大学語学教育
研究室,第 16 号,199–210.
----------(2007b)
「ジョンソン英語辞書計画案(1747)試訳 その 2」
『言語と文化』愛知大学語学教育研
究室,第 17 号,145–159.
----------(2007c)
「翻訳 ジョンソン英語辞書序文(1755)
」
『FOCUS』愛知大学英米文学研究会,第 20 号,
1–39.
----------(2007d)
「英語辞書構想案におけるジョンソンの辞書編纂理念」
『文學論叢』愛知大學文學會,第
135 輯,1–22(pp. 312–291)
.
----------(2010a)
「ジョンソン辞書誕生の周辺(その 1)
」
『文學論叢』愛知大學文學會,第 141 輯,1–23.
----------(2010b)
「ジョンソン辞書誕生の周辺(その 2)
」
『文學論叢』愛知大學文學會,第 142 輯,1–23.
Hayakawa, Isamu(2008)‘Obsolete Words and Meanings in Johnson’s Dictionary.’『言語と文化』愛
知大学語学教育研究室,第 18 号,1–13.
----------(2010)‘Johnson’s Dictionary and the Philosophy of Language in the Eighteenth Century.’
『言語と文化』愛知大学語学教育研究室,第 22 号,157–170.
永嶋大典(1983)
『ジョンソンの『英語辞典』その歴史的意義』大修館書店 .
中原章雄(1993)
『
「辞書のジョンソン」の成立』英宝社 .
Russell, Terence M.(1997)The Encyclopaedic Dictionary in the Eighteenth Century, Architecture,
― 77 ―
愛知大学 言語と文化 No. 26
Arts and Crafts. Volume Two Ephraim Chambers Cyclopaedia. Cambridge: Cambridge
University Press.
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